白と黒の長い昔話。
一年中雪に覆われた、北の山奥の村に少女は生まれた。
何の力もない、ごく平凡を絵に描いたようなその子は、幼い頃、何かに誘われるように迷い込んだ森の奥で、凍った湖に落ちて、誰にも知られずに凍えて死んだ。
……死ぬはずだった。偶然か、必然か、湖の底で紫電の瞳をもつ妖艶な女に出会い、尋ねられるままに願いを口にした。
「生きたい……、死にたくない」
闇の精霊はその願いの代償に、少女に呪いを掛けた。
「愚かな子。無垢な貴方に与えてあげるのは”憎悪“の闇。
狂気、破壊、愛でさえ…全ては憎悪に繋がるでしょう。
この世界、出会う者全てを憎みなさい。狂うほどに愛しなさい。
全てに絶望し、世界を壊してしまいなさい。
そしていつか、私の元へ――」
精霊が告げた呪いの言葉も、自分の名も、家族のことも、少女は全てを忘れて目を覚ました。
長い間、森を彷徨っていた少女は一人の人間に出会った。
鍛冶師を生業とするその青年は、不思議な力を持つ少女に魅せられ、彼女こそが伝承にある精霊だと信じ、何も知らぬ少女にもそう言い聞かせた。
青年は行き場がないと言う少女を妹として引き取り、町はずれにある工房で共に暮らすことにした。
一片の穢れもなく無垢なままであれと過保護すぎる兄は妹を外の世界から守り育て、共依存に近い関係ながら、少女は普通の人間と同じようにすくすくと成長した。
だが、平和な生活がいつまでも続くものではない。
遠い東の軍事国家が、秘密裏に行った精霊狩りに巻き込まれ、妹を庇った兄は銃弾に倒れ命を落とす。
白い雪の上に広がり続ける真紅の花。
冷たくなっていく手の温度、弱くなる心臓の音、逃げろと言った兄の声。
兄が好きだと褒めてくれた夜空色の髪は恐怖で白く染まってしまった。
ただ一人逃げ延びた無力な妹は、兄を見殺しにした深い後悔と、無力な自分への怒り、人間への憎悪に身を焦がし、己の中に生まれた新たな人格の手を取って復讐の道を選んだ。
そうでしもなければ、弱く脆い少女は生きることを選べなかった。
武器一つまともに持ち上げられなかった非力な少女は、自らに呪いを掛けることで大人にも負けない力を手に入れた。
人間から盗んだ本で術を学び、素人相手に刃を振るって技を磨いた。
けれど、少女はいつまで経っても、誰かを傷つけることを恐れる。
その悩みから助けてくれたのも、もう一人の自分――「ラシャ」だった。
少女はラシャに言われるまま役割を分担することにした。
少女は逃げながら相手を見定め考える。戦うか、このまま逃げ出すか。
戦うと決めたなら、ラシャは少女を守るため、怒りを吐き出すように刃を振るい猛り嗤う。
二人は一人で、一人は二人。
二人なら、どんなに怖くても、辛くても、きっと戦える。生きていける。
背中を合わせることも、手を繋ぐことも出来ないけれど、相棒だと互いに呼び合った。
転機が訪れたのは、人間狩りを初めて数十年が経った頃だった。
いつものように、闇に紛れて獲物の首を落とそうとした。それがその人との出会いだった。
見っともなく互いに感情をぶつけて、叫んで、泥に塗れて戦った末に、声を上げて泣いた少女に彼は言った。
「泣くくらい辛いなら、復讐なんて止めちまえ」
叱りつけるようなその言葉に何も言えなくなって、少女は刃を手放した。
兄以外の人間とちゃんと話をしたのは、それが初めてだった。
少女は今まで憎むばかりで知ろうともしなかったことを後悔し、もっと人間のことを知りたいと思った。
人間と関わるようになって、最初に知ったのは「友達」と言う言葉だった。
少女に友達を教えてくれた人間は、正義を追い求める強くて脆い、優しい月のような人だった。
他人の言葉に揺さぶられ、けして消えない恨みに藻掻き、刃を振るいその人とも戦った。その結末はあっけないもので、その人は途中で武器を捨て、身を挺して少女止めた。友に大怪我をさせてしまった少女は、何度も詫びて後悔をした。
闇である己では、誰かを照らす光にはなれないのだと嘆いた少女にその人は言った。
「闇があるから、光は光でいられる。どっちか一つじゃダメなんだ。どっちも必要なんだ。」
それがただ嬉しくて、少女はその人のように「友達の為なら何でもしよう」と誓った。
たとえ、裏切られたって、利用されたって良い。何度でも信じて、力を尽くすと。
頬に刻んだ呪いの傷は、少女を強くしてくれた反面、感情の高ぶりに応じて暴走し周りを傷つけた。
そんな少女に共に生きようと、ある青年が言った。自分が守るから、戦う必要も、こんな呪いに頼ることもないと。
少女には、その意味が理解出来なかった。
理解をしても、受け入れることは出来なかった。
少女にとって弱さは罪であり、自分が他者に守られることは決して許されないことであった。
そして何より、誰かに「助けて」と言う考えが少女の中には存在しなかった。
兄を失ったあの日から、少女が助けを求められるのはラシャだけだった。
自分の中にいる、強くて、かっこよくて、いつだって少女を守ってくれる頼れる理想の英雄。
結局のところ、必ず助けてくれる御伽噺の英雄なんていないと理解した少女は、兄を見殺しにした罪悪感に縛られ、他者に助けを求める自分を許さず、自分の中に生まれた自分を守り助けてくれる英雄だけに縋り頼る。それ以外を知らないし、求めもしない。
だから少女は、青年が差し出した救いの手を振り払った。
時が過ぎ、沢山の大切なものに出会い人間のことを理解し始めた頃、少女の左目は光を失った。
それは不運だった。戦いの中、急に飛び込んできた子供を手に掛けてしまったことも、動揺から不意を突かれたことも。罪悪感と痛みで、一時的に記憶を失くしてしまったことも、きっと全ては何処にでもあるただの不運だったのだろう。
少女だった誰かは、全てを忘れ自らを「僕」と名乗り旅を始めた。
行く当てもない自由な旅は楽しくて、時間を忘れてしまうほどだった。
たが、その旅の中で僕は少女の友人に出会い、忘れないでと嘆いたその子の声で全てを思い出してしまった。罪も、後悔も、喪失も、全部を思い出した時、少女はまた一人で泣いた。
「僕を否定しないで」と叫んだのは、少女だったのか、それともまた別の……。
少女を案じて、迷って、それでも記憶を取り戻させた友人は、拒絶した少女のことを慕い想ってくれた。
「喩え闇で穢れていても…ボクは君を一人にはしたくないから。君と共にいられるのなら、ボクは闇の底に堕ちたってかまわない… 」
その思いと願いに少女は答えを出せなかった。それでも、その子が掛け替えのない友人であり続けることは変わらなかった。
それはとある廃村でのこと。少女が出会ったのは病に伏せる子供だった。
その子は、近い内に自分が死んでしまうこと、最後に出会った少女に自分の事を覚えていてほしいと縋り願った。
けれど、忘却を経験した少女はそれに頷くことが出来なかった。
忘れてほしくない、全部忘れたくないと嘆くその子のために、少女は頭を悩ませ二人で相談した。
その末に、その子が死んだ後も、その存在を忘れず繋ぎ止められるものを少女は欲し、子供は自分の目を少女に差し出すことを決めた。
少女が自分の顔を見る度に、その目に光を映す度に思い出してくれるようにと、魔法を掛けて黄金の瞳の片方を少女に託した。
少女はそれを受け入れ、忘れないと指切りをして、永遠のお別れをした。
人間を知りすぎた少女は、自分が取り返しの付かない罪を犯して生きて来たことに気づき、誰かと関わることを恐れ始めていた。
そんな中、吸血鬼との戦闘の後に人間に囚われ、研究所に閉じ込められた。
繰り返される拷問染みた実験に、最初は生意気に噛みついていられたが、虚勢などそう長くは持たない。
ここでこのまま死んでしまっても良いと諦めもした。けれど、最後の最後に愚かな少女は欲を掻いて願ってしまった。
「もう一度だけ、みんなに会いたい」
その願いは、今まで何度も拒絶して、胸の奥に蓋をし、見ないふりをしてきた憎悪を呼び起こす。
『――僕を自由にしてよ。僕が君を助けてあげる……』
それはダメ、貴方は全部を壊すから。
『憎いでしょ、恨めしいでしょ、この男が。
僕たち、昔は同じ気持ちだったんだ。
……君も、僕と同じように全てを恨んでいたんだ』
打ち込まれた薬に精神と体を壊されながら、必死に否定して耳を塞いでも声は頭の中に響いて甘く囁き続けた。
『じゃあ、もう会えなくても良いんだ。大切な友達に』
その言葉に酷く心が揺さぶられた。
『なら、僕を望んで。僕を求めて。僕を認めて。僕を呼んで。僕を受け入れて』
迷いと沈黙の末に、少女は決して助けを求めてはならなかった相手に、助けを求めてしまった。
憎悪に名を与え、その存在を肯定してしまった。
きっと、これが少女が犯した罪の中で、最も愚かで浅はかな救いようのない罪。
自由を取り戻した少女は、再び友人に出会い、その幸福を噛みしめた。
自分は救いようのない、救われる必要もない罪人で、闇の中でしか生きられないのかもしれない。
殺し合って、呪いあって、憎んで、憎まれて。
でも、やっぱり優しい誰かの役に立ちたい。友達の傍にいたい。贅沢で分不相応な願いを少女は抱いていた。
ある日、路地裏で出会った青年は、理由のある殺しをした。
少女はそれを咎めることはしなかったが、青年に約束を押し付けた。
簡単に奪って良い命なんてないと思うから、「強くなって」と願った。彼が不要な殺しをしなくて済むように。「仕方なかった」を少しでも減らせればと。
青年は自分と少女は違うから、自分にはきっと無理だと言った。
けれど、少女は引かずに「絶対にできる」と断言して、青年に指切りを強請り、強引に約束をした。
この出会いに、きっと間違いはない。
間違いがあったとするなら、傲慢にも、誰かの役に立てると思い上がっていた少女自身だ。
とある夜のこと、少女は朽ちた城で酷く懐かしい気配に出会った。
相手は同胞。長い間旅をして、ようやく出会えた唯一の闇の精霊。
見知った相手だと気付いていても、お互いに牙を剥き、罵り、否定した。
彼は、闇の本質は残酷であると言い、少女の本質もまたそれなのだと言った。
少女はそれを否定して、かつて自分に友を教えてくれた大切な友人の教えを口にした。
「光は、届かねぇ」
「闇は光にはなれない。それでも、光は届く」
薄っぺらで奇麗ごとばかり言っていた昔と何も変わらないと、彼は嗤った。
少女はそれを見て、彼にはきっと何を言っても分かってもらえないのだろうと、哀れな者を見るような悲しげな眼をして微笑んだ。
それが、二つの闇の決裂であり、決して交わらない平行線の決定打となった。
交わらないと結論を出してなお、少女は闇だって変わることが出来るのだと彼に証明したいと思った。
自由気ままな「僕」は、少女の体を奪って楽しむことを覚えて行った。
人の血を浴びると温かいけれど、すぐに冷めてしまう。
人の悲鳴は心地よい。苦悩して、恐怖して、絶望して泣き叫ぶ声は、哀れで可愛くて愛おしい。
沢山苦しんだ人間の魂は、甘くて濃密で美味しくて僕の心と体を満たしてくれた。
人間を見ると憎くて、愛しくて、壊したくて、つい全部バラバラにしてしまう。
だって、楽しいんだから仕方ない。楽しいのは我慢なんてできない。我慢なんてしたくない。
もっともっと人間で遊んで、食べて、壊したい。
僕はいつだって自由に暴れて壊して愛して全てを憎んだ。
暴走する闇に比例するように、少女は何日も眠り続けた。
闇を抑えられたのは最初の数か月だけ。堪えることを知らない僕によって繰り返される惨劇を前に少女は苦悩し、ついに折れてしまった。
もう嫌だと逃げ出して殻に籠った少女を説得して連れ出したのはラシャだった。
今度は自分も支える、手伝うからと少女に呼びかけ、ようやく目覚めさせることが出来た。
だが、全ては遅すぎた。
少女の心は昔のように手引いて立ち上がらせたところで、もう疲弊しきっていた。
最後の一押しがあれば、簡単に全てを諦めてしまうほどに。
ある日、少女はラシャに言われ、訓練のために自ら闘技場で戦った。
その相手は偶然にも無理矢理約束を交わした青年だった。
お互い軽い怪我はしたが、五体満足で何も問題はなかった。
間違いはなかったはずなのに……。
後日、出会った青年は少女に言った。
「俺には無理だ。戦場以外で生きる自分が考えられない。やはり変われない」と。
少女はそれでもなお縋るように、青年は変われるのだと、変わってと願った。
その時になって、少女はようやく自分の愚かさに気づいた。
何処にも希望なんて無いのに、自分もまだ変われるのではないか、抗えるのではないかと、身勝手な希望を彼に押し付けていただけなのだと。
「あの時は、出来るかもしれないと思っていた。
………でも、俺はあんたと戦い、あんたを傷つけた。」
闘技場での出来事が、青年の意思を固めた原因だった。
それを知った時、少女は完全に折れてしまった。
自分のせいで、また一人の人を不幸にした。自分は誰も救えない。変われない。所詮、闇は闇なのだと、少女は抗うことを諦め、その手を再び赤く染め上げることを受け入れた。
僕が満足するだけの生贄を悪人から選んで捧げ、命を刈り取り喰らう日々が始まった。
表ではただの旅人。何処にでもいる善人のふりをして人間達の世界に溶け込み、その裏では時に悪人を殺し、僕の抑えが利かない日は仕方がないと見ないふりをした。
少女は兄に貰った名を捨てた。
大好きだった友達や、優しくしてくれた人達、みんなの前から姿を消して、誰にも深く関わらず、誰の記憶にも残らないように顔を隠して男のふりをした。
一人で生きて行こう。何も変わらない。一番最初に戻っただけだ。
一人きりの二人ぼっち。
三人目とは心も記憶も交わすことが出来ないから、やっぱり二人きり。
優しい人や、大切な人達が笑顔で生きてくれることだけを願い、その幸福の中に自分がいないことを望んだ。
これ以上、自分に関わった誰かが不幸にならなくて良いように。
いつしか、少女は白と呼ばれるようになり、男のように扱われることにも慣れ、ラシャに頼り切らず、自らの力で戦うことを覚え始めた。
その日々の中で、また何人もの人間や異形達に出会った。
ある人はいつも楽しそうに笑う悪餓鬼のような人で、自由を謳歌していた。
お互いに名乗ることは一度もなかったが、深入りはしないその距離が白には有難かった。
生意気に悪態をついて口喧嘩をしても、次ぎ会えばいつも通りに返してくれる。
殺し合った翌日でもそれが変わらないのは、きっと互いに真っ当な者ではなかったからなのだろう。
時々馬鹿をやって、馬鹿にして、馬鹿にされて、からかい合って、じゃれ合うように殴り合って、殺し合って、一緒に酒を飲んで、お菓子を食べて、たまに助け合って、足を引っ張り合って、愉快な日々だった。変わらない日常が救いだった。
とある吸血鬼は、真っ直ぐで素直で我儘で、心に負った傷さえも大切にするような……優しくて、傍若無人な可愛い子だった。
ラシャとも仲良く拳を交え、気持ちよく戦って笑い合えるような強い子でもあった。
彼女は白にできた最後の友人だった。
彼女にだけは名を明かした。それだけ、彼女の事を大切にしていたのだ。
彼女と穏やかに過ごす時だけは、白は昔に戻れたような気がしていた。彼女と過ごした日々が、終わりに近づいて行く白を繋ぎとめていた。
だからこそ、白は自分の罪をひた隠しにして良い子を演じ続けた。
その結果は散々なもので、僕の悪行を知られたことをきっかけに、白は彼女から逃げた。
嘘と言い訳を並べて納得させようなんて狡いことをしても、友達に本心までは隠せない。
泣いて縋ってしまうことが分かっているから、逃げて、誤魔化して、救おうとする手をまた拒んだ。
彼女と最後に交わした約束は、未だ果たせていない。
ある日、白は真実を思い出した。
自分がかつて人であったことも、精霊ですらない中途半端な紛い物であることも、全て。
僕の欲を抑えるために、悪人を裁き食い物にする己の行いを正義だと、殺しに理由をつけて自分を言いくるめて来たと言うのに……。死にぞこないが、自分の存在を許し生きる為に奪って良い命なんて何処にあるのだろうか。
白も、本当の化物になれば、それを肯定して良いのだろうか。
生きていても良いと思える理由も、言い訳も、見つけられなかったから、白は自分を壊すことを選んだ。
ラシャはそれを体の良い自殺だと言った。白は苦笑するだけだった。
白の旅は死ぬためのものに変わった。
直に来るだろう終わりを待つだけではいられなくて、呪いと闇に呑まれながら奈落の底へ駆け降りるように自我の崩壊を望んだ。
とある忍の兄弟は、月と太陽のように正反対なのに、根は良く似た善人だった。
先に出会ったのは弟。たまたま雨宿りを共にしただけのはずが、何度か出くわす内にいつの間にか知り合いになってしまった。
触れた温もりは酷く懐かしく、気付けば、その人を陽だまりのようだと思うようになっていた。
白は焦がれる想いに蓋をした。親切や優しさを受け取る権利なんて自分には無いのだと、よく理解していた。
強い自分で在るために、その優しさは不要なものだと拒絶して、優しいその人を不幸にしたくないから酷いことばかり口にした。
だと言うのに、どれだけ突き放しても、その人は懲りずに話しかけるものだから白は頭を抱えた。
けれど、白は彼に深く感謝していることもある。
自我の崩壊を望み狂気に飲まれ、路地裏で惨劇を引き起こした際、彼に咎められ、身を挺して教えられた。
亡骸もなく、弔えないことは、弔ってもらえないことは寂しい。
喰らった分だけ、生きなくてはならない。その死を無駄にしてはいけないから。
死に抗って、奪おうをする者からは逃げて、必死に生きなければならない。
無鉄砲で無茶ばかりするお人よしに絆されて、死に向かって歩んでいた白は、最期にもう一度だけ抗うことを決めた。
生きる理由を、生きなけれればならない理由を教えてもらえたから。
その道が、けして楽なものでもなければ、救いなんて無いとわかっていても独りで戦うと決めた。
忍びの兄に出会ったのも雨の日だった。物静かで、深入りをしないその振る舞いに居心地の良さを覚えた。
悪趣味な貴族から逃げ出す際に助けられた恩義を返そうと、自ら筆を執ったのは義理を通すため。
思えば、手紙を書いたのは白の人生で初めてかもしれない。
立つ鳥跡を濁さず、借りが返せれば良いと軽い気持ちで会ったことが間違いだったか、この兄弟が良く似ていることを白は思い知らされることになった。
結果的に、運命に抗う手段を見つけられなかった白に、彼は助け舟を出してくれた。
「助けて」と口にしなくても、差し出された手を振り払っても、それでもなお無理矢理助け出そうとする人間がいる事を、白は長い人生の中で初めて知った。
そして思った。借りはその日の内に返すこと、恩を着せられそうになったら全力で抗わねばと。
忍の兄から紹介された治療屋の世話になり、白の記憶と人格は頭から心臓へと移された。
治療屋と聞いて不安ばかりだったが、その腕は見事なもので、奪わせまいとする僕の妨害も退けて治療は成し遂げられた。
実力に裏打ちされた自信と言うものを間近で見たのは初めてだった。
治療の成果は申し分なく、望み通り叶ったことをどう知らせれば良いのか今の白にはわからないが、心からの感謝と尊敬を治療屋に贈る。
少女が渡り鳥のように旅を続けて来た目的の一つ。
それは、兄の亡骸を持ち去った族を捕まえて報復するためだった。
夢を渡って相手を追うのは、難航を極めたが、数年がかりで界渡りのランプを完成させたことで、ようやく相手の居場所を突き止めた。
犯人の男が棲む屋敷を尋ねる前に、数度に渡り男と夢の中で会話を交わした。
男は少女と同じく、契約の元、闇に食われ悪魔になった存在だった。
男は少女以上に少女の事をよく知り、少女の現状を深く理解していた。
少女が完全な精霊ではないことも、直に人としての魂に終わりが来ることも。
そこに残るのが、少女が嫌悪し否定し続けた憎悪の化物であることも……。
死を前にして、ようやく少女は約束通り屋敷に赴いた。
男が少女に執着する歪んだ愛は終ぞ理解できなかったが、兄の亡骸を持ち去った理由はわかった。
死んだはずの兄にそっくりなホムンクルスが、少女の前に現れたのだ。
だが、兄は少女の事を知らず、男の事を慕い主と呼ぶ。
少女はそれを見て、寂しさと一緒に喜びを覚えた。
本当は、死者を冒涜した男に怒りをぶつけるはずだったのに、ホムンクルスの穏やかに笑う顔を見ていると、そんなのどうでもよくなってしまった。
少女の兄はもう居ない。そこにいるのは、困り顔で主人の我儘に付き合って笑う幸せそうなホムンクルスの青年だ。
それで良い。少女のせいで失われた命が、男の起こした奇跡によって再び生きてくれるなら、それで良いと少女は男に感謝した。
男は詰まらないと不満気な顔をしたが、それこそどうでも良いと少女は気にも留めなかった。
またいつでも会いに来いと言う男に舌を出して、少女はもう二度と来ないと返事をした。
春が来る頃、白は最期の時を迎えた。
相対するは白に呪いを掛けた闇の精霊。
もう心の中に相棒はいない。本当の独りぼっちだ。
でも、大丈夫。白は胸を張って自分は強いと笑えるようになった。
傷つけることを恐れない。支えがなくたって独りでも十分戦える。
嗚呼、長い旅路の果てに辿り着いた先は――PR